心に残る一冊・・・佐々木閑


岩波書店の雑誌『科学』2010年10月号の「心に残る一冊」というコーナーで、物理学者朝永振一郎が綴った日記を、佐々木閑先生が紹介しています。

 日記の抄本は岩波文庫の『量子力学と私』で読んだことがありますが、その時、心をえぐり取られるような感覚になり、その日半日ぐったりしてしまった程でした。

佐々木先生の文章を読むと、「よくぞ私のこの感覚を、実に温かい言葉で代弁してくれた」と感じた程です。

少し長いのですが、全文引用しました。




『科学』2010年10月号、「こころに残る一冊」

朝永振一郎『日記・書簡 滞独日記』(新装版)

朝永振一郎著作集 別巻2,みすず書房, 2002)

佐々木閑



科学者というのは,この世で一番カッコいい人たちだと常々思っている。宇宙の真理,世界の本源を,智慧の力で解き明かしていくその姿は,まるで平原を疾走するライオンのように凛として気高いものに思えるのである。随分とオーヴァーな物言いだと笑われるかもしれないが,名声世に轟く一流科学者の面々を思い浮かべるとき,尊敬と畏怖の念はどうにも止めようがない。科学者として生きるということは,仏教の出家と同じく,「真理の頂をめざして一筋の道をひたすらに進む勇者の道」なのである。

そういった科学の勇者が明治期以来,日本にも数多く現れてきたことは,大いに誇るべき名誉である。すぐれた科学者を生み出すためには,社会全体にわたる巧緻な教育体制が必要だが,日本はそれを見事に構築してきたということだ。

朝永振一郎博士は,言うまでもなくそういう日本が生んだ超一級科学者の一人である。湯川秀樹博士とは旧制中学・高校,大学の同期で,湯川博士は1949年に中間子理論で,朝永博士は1965年くりこみ理論の開発により,ともにノーベル物理学賞を受賞した。また,朝永博士の学徳は,高弟の小柴昌俊博士や,孫弟子の戸塚洋二博士へと受け継がれ,日本の物理学を世界トップクラスへと引き上げる原動力になった「滞独日記」は,かくも偉大な理論物理学者が三十代の初め,ドイツ,ライプチヒ大学にいた量子論の巨人ハイゼンベルクのもとへ留学した日々を書き記したものである。

これほどの人物の日記である。普通ならそこには,若獅子朝永振一郎の華々しい研究の確固たる足跡が書き記されているに違いないと考える。すぐれた物理学者がいかにして物理の難問と対峙し,これを解き明かしたか,その努力と勝利の胸躍るドラマを期待する。しかしこの日記にあるのは自分の無能を繰り返しかこちながら,絶望の淵でもがく,展望なき無名の研究者の侘びしい姿ばかりである。「やせて顔が青くなり,夜ねられなくなり,色々人間のするたのしみも楽しくなくなるくらい,机にかじりついても,えらい学者の百分の一も仕事が結実しないのである。能がないのか。むだをしているのか。いずれにしてもなみだの出るような話である」といった文言が延々と続く。それを「学者が大成する直前の最後の関門だった」とか,「これだけの苦しみに耐えたからこそノーベル賞を勝ち取ることができたのだ」といった風に読み解くのも的外れではないが,私にはそんな思いが全く湧いてこない。この日記に顕れている朝永の苦しみが,余りにも私の心にギリギリと直接響いてくるので,とても他人事として呑気に批評することなどできないのである。 

ここにある朝永の苦しみは,私自身の,そして皆が等しく心に持っている,人としての普遍の苦悩そのものだと感じる時,この日記は特別な意味をもって私たちに迫ってくる。私の心にのこる理由はそこにある。

日本のエリート学徒として最先端の量子論を学び,物理学のメッカであるドイツに渡る。そんな,科学者としての無上のチャンスを手にした朝永にのしかかったのは,底知れぬ絶望感とあせり,先行きの不安と厭世観。誰もが心に秘めている「生きることの苦しみ」が,何層倍にも増幅されたかたちで巨岩となって彼を押しつぶした。ドイツ語が自在に使えず思うように会話ができない。これはと思って取り組むテーマがことごとく失敗に終わる。ハイゼンベルクをはじめとした最高頭脳集団とのつきあいの中で,能力の違いを思い知らされる。同輩の湯川が,日本にいながらにして発表した中間子理論が世界の話題となり,留学先のドイツにまでその令名が響いてくる。重なる条件は,朝永の心を打ちひしぎ,「これから僕が死ぬまで三十年か四十年ずっとこういう気持ちでいなければならない。人生は牢屋みたいなものだ」と語るようになり,ついには,雪中で事故死した,友人のインド人留学生ディッタのことを「一時,ディッタの死をあわれんだが今はうらやましい気がしている。あれくらい静かな死はなかろう」と言って,死者をうらやむ程に気落ちしていくのである。

日記は1年間のドイツ留学を終え横浜に向かう船中で終わる。途中で大発見の糸口をつかんで未来が開けたとか,なにか新展開の予感がしてきたとか,そういった好転のきざしもなく,そのままスウッと終わっていく。その朝永は帰国後10年,四十代になってから,精密華麗なくりこみ理論を生み出し,物理界の偉人となった。しかし[滞独日記]は,そんな後半生の栄光とはなんの関係もなく,ひたすらに苦悩する一科学者の「どこにでもあり得る,苦しみの記録」として,ただそのままに存在しているように私には思える。

朝永が後にノーベル賞学者になったから,その修業時代の「滞独日記」が意味を持つのではない。ノーベル賞はなくてもよい。重んずべきは,これほどの苦しみを心に抱え,自己嫌悪と逃避願望を抱きながら,それでも朝永振一郎という人物は,「自分がこれだと心に決めた生き甲斐の道を,一生かけてひたすら歩み続けた」という事実である。そこに思い至って初めて,私たちは「滞独日記」の意味に触れる。「滞独日記」は,自分で自分の生き方を決めていこうとする者が必ず出会う苦しみを,すべて並べて示して見せた,先達の置き手紙である。我私たちがもし,ライオンの如く凛として生きることを望むなら,そこには必ず大いなる苦悩が待ち受けている。自己を高めることに生涯をかけるなら,その道は挫折感と劣等感で敷きつめられている。しかしそれでも,歩むべき道は他にない。その先にノーベル賞の栄誉が待っているかどうかは神のみぞ知る。たとえなにもなくても,ただ苦しみだけの道であっても,それが自分で選んだ自分のための道ならば,それを歩み続けることそのものに意味がある。そう語る置き手紙なのである。

「世間に,物理などで苦しんでいる人間は九牛の一毛のようなものだ。平凡人になり切りたいという考えがそういう感情を起こさせる」と「滞独日記」に朝永は書いた。しかしその思いを越えて,朝永は一生涯物理学者であり続けた。ならば私たちもまた,「自分がやっていることなど,世間の目から見れば道ばたの石ころのようなものだ」と思い悩みながら,それでもその道を歩み続ければよいのではないか。朝永先生も歩んだ道ではないか。ノーベル賞はもらえないけれど,「頑張ったで賞」で十分だ。「滞独日記」は,科学のみならず,生き甲斐を求めて自分の道を駆け続けるあらゆる人たちへの激励の書である。たとえ期待した成果が出なくても,思い描いていたものが創り出せなくても,そのために歩む姿が格好いい,悩む姿がやるせない,そう言ってくれる。

朝永先生の晩年,着物姿で座敷に座っておられる写真がある。ゆらりと傾いたなよやかな身体,仏のような柔和な笑顔。苦悩の底であえいでいたドイツ時代のその人が,物理の道をひたすら進んだその先に,この境地があるのかと思えば,「科学もまた,正真正銘,出家の道か」と感慨が湧く。日本が生んだ,日本ならではの物理学者朝永振一郎の「滞独日記」。私の大切な道しるべである。