仏教における「二つの利他」・・・佐々木閑

岩波書店『科学』2011年1月号に佐々木先生の文章が載っていました。
特集「<利他>の心と脳・社会・進化」をテーマに12人の研究者が、それぞれの研究分野の立場から「利他」に関して書かれています。
佐々木先生は、仏教学の立場から「利他」の概念を明確に論述されていますが、二つの異なる意味を持つ「利他」の概念規定を通し、上座部仏教大乗仏教における根底的な違いが非常によく理解できます。
以下、全文引用しました。

仏教における「利他」の二つの概念
佐々木閑 ささき しずか
花園大学教授(インド仏教学)

 利他という語はもともとがインド生まれの仏教用語である。
「自利」「利他」という対立する二つの概念があって,自利とは「自己の利益」を意味し,一方の利他は「他者の利益」を意味する。
これらの語は,仏教の伝来とともにインドから中国,そして日本へと伝わり一般化した。日本人にとっては慣れ親しんだ言葉である。したがって利他という語を目にすれば誰もが即座に,「ああそれは,他者の利益のために行動することだ」と思い至る。今ではそれが英語のaltruismの訳語に利用され,生物学や社会学でのキーワードともなっている。
だが,仏教世界で利他という語が用いられる場合,そこには大きく異なる二つの概念が重なっているという事実はあまり知られていないようである。利他にも二種類あって,その違いが,仏教世界全体を二分割するほどの重要性を持っているのである。以下,その内容を簡単に説明しよう。

-釈迦がブッダになるまで

 まず釈迦の人生を語る。釈迦はカピラ国という王国の王子として生まれ,何一つ不自由のない幼少期を送った。しかしやがて「人生には老,病,死という避けがたい苦しみがある。いくら地位や財産があってもこの苦しみは消えない。真の幸福は精神世界の中にしか見いだせない」と考えるようになり,ある晩こっそりと城を出て身一つで出家し,その後何年もの厳しい修行を続けた末,菩提樹の下で悟りを開いた。この時から彼はブッダ(目覚めた人)と呼ばれるようになったのである。これが釈迦の前半生である。立派な話に思える。しかしよく考えるとこの話,実は「まったく自分勝手な人の,自己中心の半生記」である。釈迦の眼中には,他人の利益や幸福など全くない。自分一人が幸福を求めて出家し,一人で努力したというだけのことで,自分以外の者には全く関心を持っていない。釈迦という人は,ブッダになるまでは恐るべき自己中心主義者だったのである。その姿勢は,彼が悟った後も続いた。悟りの喜びを噛みしめながら,「もうこれで私の心配事はすべてなくなった。あとは寿命が来るまで楽しく安らかに一人で暮らしていけば私の人生は完結する」と思っていたのである。もし彼が本当にそうしていたら,この世に仏教という宗教は現れなかったはずだ。ところがこれを天界で見ていた梵天という神が,釈迦のところへ降りてきて,「どうぞ皆の利益のために,あなたの体験を説き示してください」と懇願する。初めは嫌がっていた釈迦も,梵天の熱意に負けて,とうとう布教活動を開始する。そしてその後,80歳で亡くなるまでのすべての人生を「他者の指導」に費やしたのである。釈迦が梵天の願いを聞いて布教活動を開始する,このエピソードを「梵天勧請」と言う。-釈迦の「利他」とは

梵天勧請」は釈迦が,自己中心的人物から,他者の利益のために行動する人間へと変貌した状況を伝説化して表したものだ。その,「他者の利益を思う心」を慈悲と呼ぶ
 釈迦は「梵天勧請」を境に,慈悲の人となったのである。では慈悲の心を起こした釈迦はその後,他者を指導するためにどのような活動をしたのか。ここが問題だ。困っている人の苦労を我が身に引き受けて,代わりに苦しんだのか。修行したくてもできない人の代わりに,自分が修行してそのパワーを分けてあげたのか。釈迦はそういったことはなにもしなかった。彼がやったのは,仏教僧団という組織を作り,そこに入ってきた出家の弟子たちを教育し,自分が辿ってきたのと同じ道を皆が歩んでいけるように環境を整えた。それがすべてである。釈迦は「この世には,私たちを救済してくれる不可思議な絶対者などいないのだから,悟りへの道は,私がやったのと同じように,各人が自分で歩むしかない。私は,その道を最初に歩いた先輩として皆を指導する。それが私にできる唯一の利他行だ」と考えたのである。
釈迦の言う利他とは「後進の指導」である。自己犠牲ではない。「自分の能力,知識を最も効率よく次世代に伝達すること」で他者を救おうというのである。生物でいうなら,親が子を教育する姿がそれにあたる

救済としての利他 

ところが釈迦の死後400〜500年すると,その仏教が変質する。外部に超越的なパワーを持った絶対者がいて,その方にお願いすると不思議な力で救いあげてもらえるという「救済宗教」の要素が流入してくるのである。こういう新しい流れの仏教を総称して「大乗仏教」と呼ぶ。分かりやすい例で言うなら「お念仏を唱えると,阿弥陀という仏がその声を聞いて,私たちを迎えに来てくださる」といった世界観である。
こうなると,利他の意味が根本から変わってくる。釈迦の時代には「超越パワーで世のすべての生き物を救うことなど誰にもできないのだから,正しい教育で導いていくしかない。それが利他だ」とされていたものが,大乗になると「我が身のことなど省みず,全力で他者をすくい上げようとする仏の思い。それが本当の利他だ」ということになった。他者の苦痛を自分が進んで引き受けることで相手を救う,つまり自己犠牲が利他の条件となったのである。そして「自己犠牲をともなわない,単なる教育としての利他はにせものである。大乗の利他こそが本当の意味での慈悲だ」といって,釈迦本来の仏教を貶めた。
こうして時代の流れの中で,利他は二つの異なる意味を持つようになった。「教育,指導」という意味「自己犠牲」という意味である。日本は典型的な大乗仏教国だから,利他の意味も大乗的である。「他を利するため,自分の命さえも犠牲にする」といった極端な行為が利他とされる。しかしスリランカなど,釈迦本来の仏教(一般に「上座仏教」という)を信奉している国々で「利他行とは」と問えば,「釈迦のように人々を正しく教え導くことである」という答が返ってくる。上座仏教と大乗仏教,この仏教世界の二本柱は,それぞれが異なる利他の概念の上に成り立っているのである。
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今私の述べたことが,利他を学術用語として用いている科学者の方達にとってどれほど意味があるものか,私には分からない。生物世界に「教育」「自己犠牲」という二種の異なる行動様式があることはよく認識されている。専門家はそれを総称して利他と呼ぶ。ところがその利他という語がもともと仏教世界で「教育」「自己犠牲」の両義を含んでおり,しかもそれぞれの概念の上に,上座,大乗という全く異なる仏教世界が成り立っているという状況である。もしかしたら仏教社会の有り様を分析することが,生物の社会行動性を理解するためのひとつのモデルケースになるのかもしれない。これから先の判断は専門家にお任せするが,ともかく,伝統ある仏教語が科学界で術語として用いられるのはうれしいことだ。この語の持つ歴史的背景が,仏教と科学の橋渡しとなって,これからの科学発展の一助となることを心から期待している。

岩波『科学』2011年1月号より