釈迦とドラッカー  ポスター

佐々木閑先生と岩崎夏海さんの対談ポスターがでていました


「律」に学ぶ生き方の智慧 (新潮選書)

「律」に学ぶ生き方の智慧 (新潮選書)

《第85回紀伊國屋サザンセミナー》 佐々木閑 岩崎夏海 「釈迦とドラッカー」 ※本講演会は終了しました | 本の「今」がわかる 紀伊國屋書店

釈迦とドラッカー 佐々木閑 ×  岩崎夏海

釈迦とドラッカー
〜二人の賢者が考えた「生き甲斐」の組織マネジメント〜

佐々木閑(仏教学者)   ×  岩崎夏海(作家
「律」に学ぶ生き方の智慧"(新潮選書)
彼らは「個人」「組織」「社会」の軋轢をいかに調和させたのか?
釈迦とドラッカーをこよなく愛する二人が、その哲学を語り尽くす。



【対談イベントのご案内】
【第85回紀伊國屋サザンセミナー】
〓「律」に学ぶ生き方の智慧(新潮選書)〓   刊行記念対談

〈出演者プロフィール〉
佐々木閑(ささき・しずか)/仏教学者・花園大学教授
1956年、福井県生まれ。京都大学工学部工業化学科および文学部哲学科仏教学専攻卒業。京都大学大学院、カリフォルニア大学大学院留学を経て、花園大学文学部国際禅学科教授。専門は仏教哲学、古代インド仏教学、仏教史。日本印度学仏教学会賞受賞。主な著書に『出家とはなにか』『犀の角たち』『日々是修行』『「律」に学ぶ生き方の智慧』など。

岩崎夏海(いわさき・なつみ)/作家
1968年、東京都生まれ。東京藝術大学美術学部建築科卒。卒業後、作詞家の秋元康氏に師事。放送作家としてテレビ番組の制作に参加。「AKB48」のプロデュースにも携わる。その後、IT企業勤務を経て、『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』で小説家デビュー。本年3月に第二作『エースの系譜』を上梓。
【日時・場所】2011年7月10日(日) 14時開演(13時30分開場)
入場料:1000円(全席指定・税込)
会場:紀伊國屋サザンシアター紀伊國屋書店新宿南店7F/新宿駅南口タカシマヤタイムズスクエア
サイン会のお知らせ 終演後、佐々木閑氏、岩崎夏海氏によるサイン会を行います。
※当日会場にて対象書籍をご購入いただいた先着150名様。
チケット取り扱い紀伊國屋サザンシアター(紀伊國屋書店新宿南店7F/10:00〜18:30)
キノチケットカウンター(紀伊國屋書店新宿本店5F/10:00〜18:30)
電話予約・お問い合わせ紀伊國屋サザンシアター tel.03−5361−3321(10:00〜18:30)

週刊新潮3月10日号


週刊新潮3月10日号に佐々木閑先生が登場

「とっておき 私の京都」真如堂

グラビア2頁見開きで、三重の塔を背景に、本堂の高欄に少し体を預けるポーズで写っています。
かっこよく決まっていますね。
写真の構図が面白く、桜の季節によく見かける真如堂の写真と一味異なる、いい写真です。

仏教における「二つの利他」・・・佐々木閑

岩波書店『科学』2011年1月号に佐々木先生の文章が載っていました。
特集「<利他>の心と脳・社会・進化」をテーマに12人の研究者が、それぞれの研究分野の立場から「利他」に関して書かれています。
佐々木先生は、仏教学の立場から「利他」の概念を明確に論述されていますが、二つの異なる意味を持つ「利他」の概念規定を通し、上座部仏教大乗仏教における根底的な違いが非常によく理解できます。
以下、全文引用しました。

仏教における「利他」の二つの概念
佐々木閑 ささき しずか
花園大学教授(インド仏教学)

 利他という語はもともとがインド生まれの仏教用語である。
「自利」「利他」という対立する二つの概念があって,自利とは「自己の利益」を意味し,一方の利他は「他者の利益」を意味する。
これらの語は,仏教の伝来とともにインドから中国,そして日本へと伝わり一般化した。日本人にとっては慣れ親しんだ言葉である。したがって利他という語を目にすれば誰もが即座に,「ああそれは,他者の利益のために行動することだ」と思い至る。今ではそれが英語のaltruismの訳語に利用され,生物学や社会学でのキーワードともなっている。
だが,仏教世界で利他という語が用いられる場合,そこには大きく異なる二つの概念が重なっているという事実はあまり知られていないようである。利他にも二種類あって,その違いが,仏教世界全体を二分割するほどの重要性を持っているのである。以下,その内容を簡単に説明しよう。

-釈迦がブッダになるまで

 まず釈迦の人生を語る。釈迦はカピラ国という王国の王子として生まれ,何一つ不自由のない幼少期を送った。しかしやがて「人生には老,病,死という避けがたい苦しみがある。いくら地位や財産があってもこの苦しみは消えない。真の幸福は精神世界の中にしか見いだせない」と考えるようになり,ある晩こっそりと城を出て身一つで出家し,その後何年もの厳しい修行を続けた末,菩提樹の下で悟りを開いた。この時から彼はブッダ(目覚めた人)と呼ばれるようになったのである。これが釈迦の前半生である。立派な話に思える。しかしよく考えるとこの話,実は「まったく自分勝手な人の,自己中心の半生記」である。釈迦の眼中には,他人の利益や幸福など全くない。自分一人が幸福を求めて出家し,一人で努力したというだけのことで,自分以外の者には全く関心を持っていない。釈迦という人は,ブッダになるまでは恐るべき自己中心主義者だったのである。その姿勢は,彼が悟った後も続いた。悟りの喜びを噛みしめながら,「もうこれで私の心配事はすべてなくなった。あとは寿命が来るまで楽しく安らかに一人で暮らしていけば私の人生は完結する」と思っていたのである。もし彼が本当にそうしていたら,この世に仏教という宗教は現れなかったはずだ。ところがこれを天界で見ていた梵天という神が,釈迦のところへ降りてきて,「どうぞ皆の利益のために,あなたの体験を説き示してください」と懇願する。初めは嫌がっていた釈迦も,梵天の熱意に負けて,とうとう布教活動を開始する。そしてその後,80歳で亡くなるまでのすべての人生を「他者の指導」に費やしたのである。釈迦が梵天の願いを聞いて布教活動を開始する,このエピソードを「梵天勧請」と言う。-釈迦の「利他」とは

梵天勧請」は釈迦が,自己中心的人物から,他者の利益のために行動する人間へと変貌した状況を伝説化して表したものだ。その,「他者の利益を思う心」を慈悲と呼ぶ
 釈迦は「梵天勧請」を境に,慈悲の人となったのである。では慈悲の心を起こした釈迦はその後,他者を指導するためにどのような活動をしたのか。ここが問題だ。困っている人の苦労を我が身に引き受けて,代わりに苦しんだのか。修行したくてもできない人の代わりに,自分が修行してそのパワーを分けてあげたのか。釈迦はそういったことはなにもしなかった。彼がやったのは,仏教僧団という組織を作り,そこに入ってきた出家の弟子たちを教育し,自分が辿ってきたのと同じ道を皆が歩んでいけるように環境を整えた。それがすべてである。釈迦は「この世には,私たちを救済してくれる不可思議な絶対者などいないのだから,悟りへの道は,私がやったのと同じように,各人が自分で歩むしかない。私は,その道を最初に歩いた先輩として皆を指導する。それが私にできる唯一の利他行だ」と考えたのである。
釈迦の言う利他とは「後進の指導」である。自己犠牲ではない。「自分の能力,知識を最も効率よく次世代に伝達すること」で他者を救おうというのである。生物でいうなら,親が子を教育する姿がそれにあたる

救済としての利他 

ところが釈迦の死後400〜500年すると,その仏教が変質する。外部に超越的なパワーを持った絶対者がいて,その方にお願いすると不思議な力で救いあげてもらえるという「救済宗教」の要素が流入してくるのである。こういう新しい流れの仏教を総称して「大乗仏教」と呼ぶ。分かりやすい例で言うなら「お念仏を唱えると,阿弥陀という仏がその声を聞いて,私たちを迎えに来てくださる」といった世界観である。
こうなると,利他の意味が根本から変わってくる。釈迦の時代には「超越パワーで世のすべての生き物を救うことなど誰にもできないのだから,正しい教育で導いていくしかない。それが利他だ」とされていたものが,大乗になると「我が身のことなど省みず,全力で他者をすくい上げようとする仏の思い。それが本当の利他だ」ということになった。他者の苦痛を自分が進んで引き受けることで相手を救う,つまり自己犠牲が利他の条件となったのである。そして「自己犠牲をともなわない,単なる教育としての利他はにせものである。大乗の利他こそが本当の意味での慈悲だ」といって,釈迦本来の仏教を貶めた。
こうして時代の流れの中で,利他は二つの異なる意味を持つようになった。「教育,指導」という意味「自己犠牲」という意味である。日本は典型的な大乗仏教国だから,利他の意味も大乗的である。「他を利するため,自分の命さえも犠牲にする」といった極端な行為が利他とされる。しかしスリランカなど,釈迦本来の仏教(一般に「上座仏教」という)を信奉している国々で「利他行とは」と問えば,「釈迦のように人々を正しく教え導くことである」という答が返ってくる。上座仏教と大乗仏教,この仏教世界の二本柱は,それぞれが異なる利他の概念の上に成り立っているのである。
 *  *
今私の述べたことが,利他を学術用語として用いている科学者の方達にとってどれほど意味があるものか,私には分からない。生物世界に「教育」「自己犠牲」という二種の異なる行動様式があることはよく認識されている。専門家はそれを総称して利他と呼ぶ。ところがその利他という語がもともと仏教世界で「教育」「自己犠牲」の両義を含んでおり,しかもそれぞれの概念の上に,上座,大乗という全く異なる仏教世界が成り立っているという状況である。もしかしたら仏教社会の有り様を分析することが,生物の社会行動性を理解するためのひとつのモデルケースになるのかもしれない。これから先の判断は専門家にお任せするが,ともかく,伝統ある仏教語が科学界で術語として用いられるのはうれしいことだ。この語の持つ歴史的背景が,仏教と科学の橋渡しとなって,これからの科学発展の一助となることを心から期待している。

岩波『科学』2011年1月号より


ポスターのご紹介

花園大学公開講演会「脳科学と仏教」のポスターがありました。
ご紹介します。

迫力ありますね〜
4人の先生方(藤田一郎,佐藤宏道,大澤五住,佐々木閑)のトークセッション、とても楽しみです。

〜科学と仏教の接点V〜「宇宙の起源、生命の起源、そしてヒトの起源 パート1」

平成22年10月30日(土) 開催
「科学と仏教の接点V」
宇宙の起源、生命の起源、そしてヒトの起源 パート1

主催 東京禅センター

第五回「科学と仏教の接点」の講演会開催日程が決定いたしました。

佐々木閑先生の紹介により今回は生物学と物理学の分野から先生をお招きいたしまして

科学の最新の情報をお話しいただきます。

【講師】

湯川哲之(ゆかわ てつゆき)総研大名誉教授

1944年、和歌山県生まれ。1967年、京都大学理学部物理学科卒 1972年、Rutgers大学大学院終了 Ph.D.米国M.I.T.理論物理学 センター ,フランスSacley原子核研究所を経て,昭和50年、デンマークNiels Bohr研究所助手。1976年、高エネルギー物理学研究所 助教授。1995年,総研大葉山高等研究センター教授

研究テーマ:宇宙や生命などの「存在の起源の研究」


斎藤成也(さいとう なるや)国立遺伝学研究所教授(総研大東京大学大学院教授を兼任)

1957年,福井県生まれ。1979年,東京大学理学部生物学科卒。1986年,米国テキサス大学大学院修了 Ph. D.。東京大学理学部助手を経て現職。

研究テーマ:ゲノム進化,人類進化

著書:『DNAから見た日本人』『自然淘汰論から中立進化論へ』など多数。


佐々木閑(ささき しずか)花園大学国際禅学科教授

1956年福井県生まれ。京都大学工学部卒業。京都大学文学部卒業。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学。米国カリフォルニア大学バークレー校仏教学科に留学。1990年花園大学専任講師。2002年花園大学教授。 文学博士

主な著書
『日々是修行』(ちくま新書)『犀の角たち 』(大蔵出版)『出家とはなにか』(大蔵出版
『インド仏教変移論 なぜ仏教は多様化したのか』(大蔵出版
翻訳『鈴木大拙大乗仏教概論』(岩波書店) など

日時:平成22年10月30日(土)  午後1時30分〜午後5時

会場:東京大学駒場キャンパス  数理科学研究科棟

会費:無料

※申し込み方法:下記でFAX・Eメール・ハガキにて受け付け中
(※電話での受付はしておりません)。

折り返し受講証をお送りいたしますので、住所・お名前を明記ください。

東京禅センター 

〒154-0003

東京都世田谷区野沢3-37-2 龍雲寺会館

FAX 03-5779-3801

MAIL  zen@myoshin-zen-c.jp

「脳科学と仏教」藤田一郎・佐藤宏道・大澤五住・佐々木閑

花園大学公開講演会  

 テーマ:「脳科学と仏教」
脳科学の最先端を研究する大阪大学の科学者三名とインド仏教学者による、ヒトの精神構造と仏教との間に存在する共通性を見出すためのトークセッション。ニューロンが形成するヒトの認識システムと、釈迦が二千五百年前に説いた人間の心の在り様に、どのような共通性があり、そしてどれほどの相違があるのか。そういった話題を、最新の研究成果を基に、三時間にわたって楽しく語ります。


日時:平成22年10月9日(土) 午後1時〜午後4時
会場:花園大学 無聖館5階ホール

会費:無料 予約の必要なし どなたでも参加できます

【講師】藤田一郎:大阪大学大学院 生命機能研究科教授  認知脳科学

佐藤宏道:大阪大学大学院 医学系研究科教授  システム脳科学

大澤五住:大阪大学大学院 生命機能研究科教授  神経工学神経生理学

佐々木閑花園大学国際禅学科教授  インド仏教学